広島地方裁判所尾道支部 平成4年(ワ)114号 判決 1993年10月22日
原告・反訴被告(以下「原告」) 川口春枝
右訴訟代理人弁護士 井上正信
被告・反訴原告(以下「被告」) 池田泰郎
右訴訟代理人弁護士 島本誠三
主文
一 被告は、原告に対し金三八八万五〇〇〇円及び内金一四三万五〇〇〇円に対する平成四年五月二六日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。
二 被告の反訴請求を棄却する。
三 訴訟費用は本訴、反訴を通じ被告の負担とする。
四 この判決は、第一項に限り仮に執行することができる。
事実及び理由
第一 当事者の請求
一 本訴請求(原告)
主文第一項同旨
二 反訴請求(被告)
原告は、被告に対し、金二〇九万四三五〇円及びこれに対する平成四年四月六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
一 (懸場帳の売買)
1 亡川口開(以下「亡川口」)及び被告は、家庭用配置薬の行商を業としていた(争いない)。
2 亡川口は約四五年間家庭用配置薬の行商を行なってきたが、平成三年二月に肺癌で入院し、営業を継続することができなくなったため、同年九月六日左記条件にて懸場帳及び在庫医薬品を被告に売却(以下「本件売買契約」)した。懸場帳とは、家庭用配置薬の行商を行なう者が、配置薬の配置先の家庭の住所・氏名、配置薬の種類・数量、売上金額などを記載したもので、家庭配置薬の業界では、懸場帳自体が売買取引の対象となるものであり、営業譲渡と同一視できるものである(以上、病名については、原告本人尋問、その余は争いない)。
記
(一) 代金
懸場帳 八〇七万九七五〇円
在庫医薬品 三三万五〇〇〇円
合計 八四一万四七五〇円
(二) 支払方法
平成三年九月六日 三〇〇万円
同年一〇月二五日限り 二七万九七五〇円
同年一一月二五日限り 四五万円
同年一二月二五日限り 四八万五〇〇〇円
平成四年一月より同年一二月まで
毎月二五日限り 三五万円
二 (引渡及び支払関係)
1 亡川口は平成三年九月六日被告へ本件懸場帳と在庫医薬品を引渡した(争いない)。
2 被告は、次のとおり合計四五二万九七五〇円の代金を支払ったが、残代金三八八万五〇〇〇円については支払をしない(争いない)。
平成三年九月六日 三〇〇万円
同年一〇月一六日 二七万九七五〇円
同年一一月二六日 四五万円
同年一二月一七日 四五万円
平成四年一月一三日 三五万円
三 (相続)
亡川口は平成三年一二月一六日死亡(<書証番号略>)し、原告が単独相続した(争いない)。
四 原告は右二項の残代金三八八万五〇〇〇円及び商事法定利率による損害金を請求したのに対し、被告は、詐欺による本件売買契約の取消、要素の錯誤による無効を主張し、詐欺による損害賠償として、既払額四五二万九七五〇円から在庫医薬品三三万五〇〇〇円と被告回収の売上金二一〇万〇四〇〇円を控除した二〇九万四三五〇円及び民法所定の年五分の損害金を反訴として求めた。
五 (被告の詐欺、錯誤の主張)
1 亡川口は、本件懸場帳による年間売上高につき、平成二年度の実績で四三七万〇五九〇円あり、例年ほぼこの程度の実績があることを保証した。このため、本件売買価額は、右売上高に対して高目の掛率である一・八五倍をかけて算出された。
2 しかし、被告が平成三年九月七日以降平成四年三月一日まで半年かけて全部の顧客をまわっても、二一〇万〇四〇〇円の売上げしかなく、保証した売上高の半額にも満たなかった(年二回の回収として、基本高は三〇〇万円が相当)。亡川口の本件懸場帳の記載には虚偽が多く、実際には回収できない売上げが記帳され、売上高が仮装されていたのである。
3 したがって、本件売買契約を詐欺を理由に取消すと共に、本件売買契約には、その重要な前提事実、基礎部分に虚偽が存在したので、要素の錯誤があり無効である。
六 (原告の反論)
1 売上高につき、保証をしたとの主張は否認する。掛率は一・八五であったが、これは高目の掛率ではない。
配置先が、そのまま懸場帳の買手の配置先として固定するかどうかは、買手の配置薬販売業者としての信頼性、営業努力と相手方である配置先の意思で決まる問題である。懸場帳売買の際の掛率は、このような不確定な要素を折り込んだうえで、売手と買手との合意で決定されたものであって、買手の思惑が違ったとしても、詐欺などの要素が入る余地はない。
2 なお、本件懸場帳の売上高に計算違いがあったとしても、被告の売買契約の代理人たる斎藤優が本件懸場帳を仔細に点検しているので、結果として、被告に重大な過失があったことになり要素の錯誤の主張は許されない。
第三 争点とこれに対する判断
一 本件の争点は、本件懸場帳の売買に詐欺或いは要素の錯誤があったといえるかである。そして、その前提として、懸場帳の売買というものにつき考えておく必要がある。
二 そもそも、懸場帳は配置薬の配置先である顧客を記載した帳簿であるが、これに配置された配置薬の種類・数量、売上金額が記載されているため、家庭配置薬業界では、懸場帳自体が売買の対象となり、この売買と共に配置済み配置薬と使用分の薬代金が買手に移転することにより、一種の営業譲渡がなされたと同一の効果を生ずるものである。このように懸場帳売買が営業譲渡の一つと考えられるものとすると、一定の売上、収益を一般的に保証し得ないものであることは、事柄の性質上やむを得ないところである。原告本人尋問に照らしても、亡川口が平成二年の売上実績四三七万〇五九〇円程度の売上を保証したと認めることはできない(本件売買契約につき契約書なし)。そして、売上の基本高は、そもそも営業譲渡の対価たる懸場帳の売買価格を決める一つの要素であるに過ぎない。現実に営業譲渡後にどれだけの売上げ、収益を上げ得るかは、買手業者の営業努力、配置先の意向等不確定な要素を含んでおり、合意による懸場帳の売買価格は、これら不確定な要素による危険をも一定程度折り込んで決定されるものである。したがって、買手の思惑と異なる結果が生じたとしても、特別の事情がない限り、詐欺や要素の錯誤の問題は直ちに生ずるものではない。
三 そこで、本件につき積極的に詐欺が成立するか、具体的に検討する。
<書証番号略>、原告本人尋問、証人斎藤優の証言によれば、以下の事実が認められる。
1 亡川口は、癌のため平成三年二月二二日に入院し、配置薬の配置販売の仕事が続けられなくなったため、本件懸場帳を売却しようとするに至ったこと
2 当初、同業の富樫某が本件懸場帳を買うとの話もあったが、売買契約に際し、斎藤優を間に入れようとしたところ、斎藤優が別の買主として被告を紹介し、被告に本件懸場帳を売却することになったこと
3 配置薬の売上の基本高の計算については、斎藤優が亡川口から本件懸場帳七冊の送付を受けて、これを基に平成二年春二二六万九一一〇円、同年秋二一〇万一四八〇円と計算し、一応平成二年の売上実績として四三七万〇五九〇円の数字を出したこと(但し、四三七万円の売上実績を保証したと認められないことは、前記のとおりである)
4 亡川口は掛け率を二・〇最低でも一・九を希望していたが、斎藤優を通しての交渉の末、一・八五倍の掛け率となり、支払いも、即金による一括払いでなく、本件売買契約成立の平成三年九月六日に三〇〇万円を頭金として、支払った外は、分割払いとなったこと
5 なお、亡川口と被告は、いずれも斎藤優から配置薬の仕入れを一〇数年していたが、本件売買まで面識はなく、本件売買契約成立の日に初めて会ったこと
以上の事実が認められ、これを覆す証拠はない。
このように、亡川口は被告と直接面識がなく、専ら間に入った斎藤優が被告との本件売買の交渉、価格決定にあたったものであるから、亡川口がみずから被告に対し積極的に詐欺を働いたものとは、俄に認め難いというしかない。
被告は、詐欺の前提として、亡川口により本件懸場帳には虚偽記入がなされ、売上高が仮装されていたと主張する。
しかし、積極的に詐欺が認定されるためには、一部に単なる記載漏れや誤記が存在したのみでは十分でなく、本件懸場帳全体につき、意図的に虚偽記載がなされていたと認められなければならない。
被告は、虚偽記入のなされていた根拠として、間東政夫と藤原勝の二軒に残っていた精算書と本件懸場帳との記載の対比の結果や、被告が本件懸場帳の配置先を回って、第一回に二二〇万円程度しか使用分代金を回収できなかったこと(<書証番号略>)を上げている。そして、亡川口は平成三年二月二二日に入院したため、同月以降は配置先を回っておらず(原告本人尋問)、平成三年は配置先を一回しか回らないことになるから、被告が平成三年九月七日から翌年二月に掛けて回った一回で、年間売上実績の四四〇万円の売上の回収ができる筈であると主張している。
しかし、平成三年に一回しか回らないことになることから、その一回で年間業績の一年分の代金が回収できるとするのには、論理の飛躍がある。
証人斎藤優の証言においても、配置薬の配置販売については、年一回配置先を回る販売方法の業者と、春と秋の年二回配置先を回る販売方法の業者とがあることが認められるところ、配置先を一回回るだけで、二回回るのと同じ売上実績を確保できるのならば、わざわざ手間暇を掛けて二回回る業者はいなくなるであろう。通常年二回回っていたところが、一回になった場合に回収代金が増加するのも、前回配置してから次に回って来るまでの期間が長くなるからに過ぎないし、逆に、期間が倍になったとしても、使用、服用しようとしても足りない配置薬等が生じうるから、その回収代金が倍になるものでもない。年に二回回ることによって、配置先の家族の健康状態を把握し、それに適合した薬を配置することによって、年間の販売実績が確保されているものとみることができる。そして、証人斎藤優も、亡川口の売上高につき、東亜薬品の仕入額を総合して年間四ないし五〇〇万円あったと思われると証言している(同人調書三〇項)。
ところで、被告は、亡川口が存命中は分割金をほぼ定められた期日までに支払い、死亡後も平成四年一月分については、期日前の同月一三日に支払っていたこと、そして、被告は、同年二月になって分割金の支払をやめたことは前記のとおり争いのないところである。そして、<書証番号略>及び原告本人尋問によれば、被告は、平成二年二月一六日、配置先を二回回ったが帳面を返すと原告に言い、以後支払がなくなったことが認められる。しかし、年二回春と秋に回るとすると、平成三年九月七日から被告が回っているとして、まだ六カ月を経ないうちに、本当に被告が二回目に入っていたかには疑問がある。
また、被告が第一回目で回収した二二〇万円の裏付けとして売上控(<書証番号略>、合計二一〇万〇四〇〇円と記載されているが、正確には二二〇万七四五〇円)が提出されており、この控には、平成三年一月一五日から同月二二日、同月二四日から翌二月一三日の間の売上の記載がないことが認められる。しかし、<書証番号略>によれば、少なくとも被告は同年一月二六日から翌二月四日まで売上を上げており、これらが被告の売上回収額から落ちていることは明らかである。したがって、右二二〇万円が被告の第一回目の真の売上回収額ともいえず、結局の所、この回収額をもって亡川口の詐欺の根拠とする被告の主張は採用しえない。
被告は、間東政夫と藤原勝の懸場帳には、配置先を回ったとする日の清算書が配置先に残されていないものがあり、このことが懸場帳の虚偽記入を裏付けているともいう。しかし、その日の清算書が残されていなかったとしても、たまたま配置先でこれを紛失したりすることもあり、この一事をもって、本件懸場帳全体に意図的に虚偽の記載がなされていると結論付けることはできない。
そもそも、本件懸場帳全体に被告主張のような意図的な水増し、虚偽記入がなされていたならば、被告が配置先を回り始めて二、三カ月の内にこのことが分かってしかるべきである。亡川口の亡命中に、なぜこの苦情が申し立てられなかったのか、疑問とせざるを得ない。いずれにしても、被告の詐欺の主張を認めるに足る証拠はないと言わざるを得ない。
四 被告の錯誤とするところは、結局のところ、被告が本件懸場帳をもとに一年間配置先を回れば、一年半分六〇〇万円の代金の回収ができた筈であるというもののようである。そして、二回目からは被告が一回目に配置した薬の種類や量など、営業政策や努力によるところであるから、詰まるところは、第一回目に回って四四〇万円が回収できなかったことが錯誤に当たるということに尽きる。
しかし、一年間の売上が四四〇万円であるということと、被告が第一回目に配置先を回って四四〇万円を回収できるかは、論理的に全く別のものであり、この点は、全くの被告の思惑、主観的な動機というしかない。被告が、基本高に対する一・八五倍の掛け率に、このような思惑、動機で同意し本件懸場帳の売買価格が決まったとしても、この動機自身が明示され本件売買契約の要素となっていたものでもないから、単なる動機の錯誤に過ぎず、要素の錯誤に当たるものとは認め難い。
五 よって、被告の詐欺、要素の錯誤の主張は採用できず、原告の本訴請求は理由があるから認容し、被告の反訴請求は理由がないから棄却し、主文のとおり判決する。
(裁判官 平澤雄二)